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墓前に奉げるお疲れ様、そしてありがとう!

「お疲れ様」
この言葉はなにも人間にだけ使う言葉ではない。頑張った競走馬にこそ、かけてあげたい言葉である。今回は、心の底から「お疲れ様」と言ってあげたい、生涯を頑張りぬいた競走馬たちを紹介したい。
馬キュレ 

優しすぎたダービー馬【キーストン】

inyofu 昭和40年の日本ダービー馬キーストンも、レース中の故障で生命を終えた馬だ。6歳時に出走した暮れの阪神大賞典。5歳春から6歳夏まで脚部の故障で長期休養を取ったこともあり、関係者は慎重を期して遠征を避け、中山の有馬記念ではなく地元の阪神大賞典を6歳最後のレースに選んだ。僅かに出走頭数は5頭。木枯らしの吹きすさぶ阪神の3100m戦で、キーストンは1番人気の支持を受けた。現調教師の山本正司を背に、軽快なピッチでレースを引っ張ったキーストン。だが、最後の直線に悲劇が用意されていた。
inyofu キーストンは小柄な逃げ馬だった。ダービーを含め18もの勝ち星を積み重ねた名馬ながら、この馬の走りに“華麗な逃げ脚”といった表現はほとんど見られない。常になにかに追われるように、懸命に逃げ脚を伸ばしていたという。阪神大賞典でも、一度も先頭を譲ることなく最後の直線へと向かったキーストン。しかし、ゴールまであと300メートルのところでキーストンの左前脚が突然悲鳴をあげた。なにが起きたのか分からないまま、鞍上の山本は左右に揺れ、そして落ちた。落馬の衝撃で意識を失った山本。コース上に佇むキーストンの左前脚は、地面から離れ不自然に揺れていた。左第一指関節完全脱臼、左前脚が皮膚だけでつながった状態であり、もはや誰の目にも回復は望めない重傷だった。
inyofu 激痛に耐えかね、狂ったように暴れてもおかしくない状況だったが、キーストンは残った3本の脚を使い、コース上に横たわる山本の元へ一歩一歩近付いていく。山本の顔を覗き込んだキーストンは、その安否を気遣うように鼻先を山本の顔にすり寄せた。意識が戻った山本は、両手でキーストンの首を撫でた。そのとき、キーストンと山本はなにを伝え合ったのだろう。
当時のレース映像
【キーストン】はレース後、安楽死の処置によってその日のうちに旅立って行った。数々のレースを共に歩み、【山本騎手】と【キーストン】の関係は、普通の騎手と競走馬の関係を超えていたと、語る関係者は多い。だからこそ【キーストン】は、痛みに必死に耐えながら、最期まで【山本騎手】を気遣ったのだろう。
inyofu キーストンに起こされ目を覚ました山本は走ってきた厩務員に
「早く助けてやってくれ!頼む。」といってまた気を失った。
目を覚ましたときにはもうキーストンは死んでいた。
キーストンのもとに走った そこには横たわっているキーストン。
誰もしゃべらない沈黙の中、キーストンの安楽死を行った獣医が
「この子はこの小さな体で、注射をすると普通5分ほどで死んでしまうのですが
15分も耐えていました。痛いだろうに鳴き声もあげずに耐えていました。
長い間、獣医をしてきましたがこんなにすごい馬は初めてです。」
それを聞いた厩務員のひとりが・・・・
「山本さん・・・待っとったんやなぁ」とつぶやいた。
それを聞いた山本さんはキーストンの首にだきついていつまでも泣き続けた。

その死に様は弁慶そのもの【ライバコウハク】

inyofu ライバコウハクは、京都大障害(春)をレコードで勝利し、春秋連覇するなど1980年代に障害レースで活躍した競走馬です。1987年暮れの中山大障害でのこと。同レースでは4度の2着が続き、同年春は4着でした。大竹柵と呼ばれる障害の壁を飛越し、次の大土塁障害を越えようとした瞬間、後ろの肢が鈍い音を立てて骨折、大きくバランスを崩しながらもライバコウハクは障害を飛び越えますが、着地はできず、人馬は崩れ落ちてしまいました。
inyofu 大土塁障害の高さは約140センチもあり、障害手前から見ると転倒した騎手は完全に死角となりますが、このときライバコウハクは激痛に耐えながら、前肢を突っ張り立ち、障害と騎手の間に立ちはだかり、後続の馬に騎手が踏まれないように守ったのです。後続の馬が無事通過したあと、ライバコウハクは馬運車が到着する前にコース上で息絶えました。騎乗していた大江原騎手は「命を懸けて守ってくれた馬を、ぼくは忘れることができない」と語り、ライバコウハクの写真をずっと部屋に飾っていたそうです。
騎手を守るため、コース上で仁王立ちをして息絶えた【ライバコウハク】。普通の場合、レース中に大けがをおった競走馬は、その場でグルグルと回るなどの動作をとり、馬運車に運ばれた後に安楽死の処置をとられる。しかし、痛みに耐えて騎手を守るという明確な行動をし、そのまま息絶えた【ライバコウハク】はまさしく競馬界の弁慶であった。

砂の女王の悲劇【ホクトベガ】

inyofu 「エリザベス女王杯」
その名の通り、女王を決するレース。
多くの人がベガの勝利を確信していたこのレースでなんとホクトベガは勝ってしまった。
勝利の女神のいたずらなのか?人々の衝撃は大きかった。
「ベカはベガでもホクトベガです」
実況者の叫びはいまでも耳に焼き付いてる。
忘れ去られようとしていたホクトベガは、自らの力で女王の座を勝ち取ったのだった。
ホクトベガ【エリザベス女王杯】
inyofu 女王となったホクトベガ。
しかし、苦難の道は続く。
男馬の一線級とのレース。さすがの女王も、男どもには敵わなかった。
そして、多くの女馬はここで引退する。
ベカも他の同期の子たちもどんどんと引退していった。しかし、それでもホクトベガは走り続けた。
「女馬は子供を産むという大事な仕事があるんだから、早く引退させてあげて」
これが、当時の競馬ファンの大方の意見だった。私自身もそう考えていた。
走っては負けるホクトベガ。その姿にはもう女王の面影はなかった・・
しかし、彼女はふたたび女王の座を勝ち取ることになる。自らの力で。
inyofu 1995年6月13日
川崎競馬場に彼女は現れた。この日行われるレースは「エンプレス杯」
このレースは砂の上を走るダート競馬である。
いままで芝の上を走ってきたホクトベガにとって、
ほとんど経験のない砂の競馬。
「泥だらけになる女王なんて見たくない」
多くの競馬ファンは、このレースに出走することに反対した。
「こんなところで負けたら、女王の戦績に傷がつく」と。
しかし、そんな不安をよそにホクトベガは見事勝利を手にした。
しかも、2着以下を大きく引き離しての歴史的大圧勝劇。
このレースで負けた馬に乗っていた騎手の一人はこう言った。
「前のレースの馬が残っているのかと思った」
あまりにも強い勝ち方。見るものを魅了し感動を与えてくれた。
そして、ここからホクトベガの快進撃が始まる。
強い! 強すぎる!!
砂の上では男たちも敵わない。過去に例をみない、
ダートのスーパーホースの誕生である。
人々は口々にホクトベガをこう呼んだ。
「砂の女王」と。
ホクトベガ【エンプレス杯】
inyofu 日本にもう敵はいない。
その彼女が選んだ引退レースは、世界の舞台だった。
「ドバイワールドカップ」
世界の強豪が集まるレース。
inyofu そのレースの結果を知ったのは、翌々日の朝のことだった。
朝起きて、真っ先に新聞を広げた。ホクトベガのことが載ってるはず。
スポーツ欄を開き、上から順番に見ていった。
そして、一番下の片隅にその記事を見つけた。
それは、まったく予想すらしていなかった結末だった。
inyofu 「ホクトベガ、安楽死」
inyofu レース中に他馬と接触し転倒。
手の施し様のない大怪我を負ったホクトベガ。
人が彼女に出来る唯一のことは、
苦しみから一刻も早く解放してあげる事だけだった・・
ホクトベガの走った総距離、78900メートル。
あと残りはたったの500メートルだった。ゴールは見えていた。
最後のゴールは目の前に見えていた。
ホクトベガを知って4年。いつも彼女の走りを見ていた。
早く引退させてあげたかった。
だから、「このレースで引退」と聞いた時、心底嬉しかった。
やっと母になれると。でも、母になる夢はかなわなかった。
inyofu それどころか、日本に帰ってくることすらできなかった・・・
ホクトベガ【ドバイワールドカップ】
引退が決まっていた最後のレースで転倒し、大けがをおった【ホクトベガ】。悲惨な落馬事故に関わらず、奇跡的に軽傷ですんだ横山騎手は 「自分の身を守れたはずなのに、俺をかばったんだよ。普通ならあの落馬なら歩けないし、打撲ですまない。ベガが守ってくれたんだ。」と レース後に語った。
転倒の際、騎手を自身の体で危険な目に合わせてしまうと思ったのか、自身の体だけを地面に叩きつけ騎手が無事に逃れられるようにしたのだとか。
その後の【ホクトベガ】は検疫などの問題で馬体は日本に帰れず、故郷の酒井牧場の墓には、たてがみだけが納められている。

その優しさ故に、壮絶な最期を遂げた名馬たち。 しかしその生涯は、競馬ファンの心にいつまでも輝き続けている。
巨大な馬体を、4本の細い脚で支えるサラブレッド。
スピードを追求して進化する過程で脚の故障は宿命となり、すべてのレースを命懸けで走りぬく。 だからこそ、競馬には熱いドラマがあり、感動があるのだろう。 一競馬ファンとして、すべての競走馬にこの言葉を奉げたい。
「お疲れ様」、そして「ありがとう」

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