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淀に咲き、淀に散る。黒い刺客、ライスシャワー

1993年の天皇賞(春)馬・ライスシャワー。ミホノブルボンのクラッシック3冠を阻止し、メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻止したヒール役。1995年の宝塚記念でファン投票1位に輝き、ついに主役となるが、レース中に故障。悲劇の主役に。そんなライスシャワーについてまとめてみた。
馬キュレ

1989年3月5日、北海道のユートピア牧場で誕生

inyofu 1991年3月23日に茨城県美浦トレーニングセンターの飯塚好次の元へ入厩。4月4日には「ライスシャワー」と馬名登録された。これは結婚式のライスシャワーのように、本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた。異説として、秋篠宮文仁親王と紀子妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めたとも言われている。飯塚はライスシャワーの印象について「男馬にしては体が小さい。それもあって大物感はなく、もちろんグレードレースでどうの、といったことは少しも考えなかった。ただ小さいけれど、いかにもバランスがいい体型なので、うまくいけば中堅クラスまではいくかな、と思いましたよ」と述べている。担当厩務員となった川島文夫は、体の小ささが目について期待よりも不安の方が大きかったという。

日本ダービー2着で波乱の立役者に

1991年8月10日の新潟開催でデビューし勝利。2戦目の新潟3歳ステークスでは敗れたが、3戦目の芙蓉ステークスで2勝目をあげる。その後骨折が判明し休養。年明けの3月29日に皐月賞へのトライアルレース・スプリングステークスで復帰し、ミホノブルボンの4着に。皐月賞でもミホノブルボンの8着。日本ダービーへのトライアルレース・NHK杯でも8着だった。
inyofu 5月31日に迎えた日本ダービーでは18頭立て16番人気の評価だったが、最終調教でライスシャワーの調子が上がっていることを感じた的場は「いい位置で粘りきることが、馬の力を引き出す一番の方法だと思って」逃げたミホノブルボンに続く2番手でレースを進めた。最後の直線ではミホノブルボンとの差を詰めることができず、後方から追い込んできたマヤノペトリュース(田原成貴騎乗)に一旦は交わされたが、最後に失速した同馬を差し返す形となり2着で入線。ミホノブルボンとの馬連配当2万9580円という波乱の立役者となった。的場は「もし田原騎手が『ブルボンを負かすのは無理』と、照準をブルボンではなく僕らに向けて2着狙いできていたら、おそらく楽に捉えられてしまっただろうし、そういう意味では、この2着はラッキーであったかもしれない」としながらも、「日が経つにつれて『この馬で、あのミホノブルボンに、三冠最後の菊花賞で何とか立ち向かいたい』という気持ちが、僕にも強く湧いてきた」と述懐している。
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菊花賞でミホノブルボンの3冠阻止

休息の後、秋初戦のセントライト記念は田中勝春騎手が騎乗し2着。京都新聞杯は鞍上が的場騎手に戻り、ミホノブルボンの1馬身半差の2着。そして菊花賞へ。
inyofu  1991年デビューのライスシャワーが最初に闘った“ヒーロー”は、同期のミホノブルボンだ。無敗のまま皐月賞と日本ダービーを制し、秋には菊花賞トライアル・京都新聞杯も勝利。三冠達成は間違いなしといわれた栗毛の逃げ馬である。

 そのミホノブルボンに対し、日本ダービーでも京都新聞杯でも2着に甘んじていたライスシャワーだったが、大一番・菊花賞では鮮やかな逆転劇を演じる。直線、先頭に立って栄光のゴールを目指すミホノブルボンを並ぶ間もなく差し切り、三冠を阻止したのだ。

 ライスシャワーにとっては初の重賞制覇。だがミホノブルボンに夢を託した多くのファンにしてみれば、その姿は憎き敵役として目に映ったのだった。
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メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇も阻止

翌年1993年は、目黒記念から始動。2着となり、続く日経賞では初めての1番人気で期待に応え、天皇賞(春)へ。
inyofu 2度目のGI勝ちは翌年春の天皇賞、相手は3連覇を目論む現役最強馬メジロマックイーンだった。伝家の宝刀ロングスパートを封じるため、ライスシャワーは過酷な調教を施され、心身の贅肉を一切削ぎ落として真剣勝負に臨んだ。跨っただけでピリッと緊張を走らせる愛馬に的場均騎手(現調教師)は自信を覚えたが、逃げるメジロパーマー、続くメジロマックイーンに取り付いて最終コーナーを回った時、それは確信へと昇華した。ライスシャワーは2馬身半差の完勝で王者に引導を渡し、その名を広く轟かせたのだった。
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長いスランプの後、復活

inyofu 骨折休養を挟んでの9連敗。長らく潜伏の時期を過ごしたライスシャワーの久しぶりの勝利、そして最後の勝利ともなったのが1995年の第111回天皇賞(春)だ。ここでもライスシャワーの立場は主役とは言い難かった。メンバー中ただ1頭のGI馬だというのに、人気は4番手。しかもレースでは、3コーナー先頭から粘り抜くという渾身のロングスパートを敢行したライスシャワーと、鋭く追い込んだステージチャンプが並んでゴール、ステージチャンプの鞍上・蛯名正義騎手が派手なガッツポーズを見せたため、観る者すべてがこの勝利だと思い込んだ。

ところが、ハナ差で軍配はライスシャワーに上がる。またしてもライスシャワーは、ライバルから主役の座を奪い取ったのである。
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悲劇の宝塚記念

inyofu 天皇賞の後は疲れが見られたことから、放牧に出ることも考えられていた。しかし宝塚記念のファン投票で1位に選出されたこと、またこの競走が当年1月に発生した阪神・淡路大震災の影響で、例年開催の阪神競馬場ではなく得意の京都競馬場での開催となっていたことから、出走が決定する。他に近走の重量からは望外の軽量となる56kgで出走できることもあり、さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった。宝塚記念2日後の6月6日には、種牡馬入りへの支援を申し出た日本中央競馬会の担当者がライスシャワーを見に来る予定となっていた。
当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。的場は最初のコーナーを回った時点で様子がおかしいことを感じ取り「今日は勝つどころじゃない、慎重にまわってこようと」考えたという。第3コーナーでライスシャワーは自らスピードを上げたが、直後に前のめりになり、いったん身体を起こした後に転倒。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており、診療所まで運ぶことができず、その場に幔幕が張られた中で安楽死の措置が執られた。的場は打撲で済んでいたことから、その最期を看取った。担当厩務員の川島は、手綱を握りしめたまま泣いていたという。
ライスシャワーの死後、JRA賞で「特別賞」が贈られた。また、京都競馬場にはライスシャワーの記念碑が建立され、故郷のユートピア牧場や美浦のトレーニングセンターにも記念碑が建設された。ミホノブルボンの3冠阻止、メジロマックイーンの3連覇阻止と、ヒール役ばかりだったライスシャワーが主役となった宝塚記念。悲劇の主役となってしまったのはとても残念だ。ライスシャワーはこれからも多くのファンに愛され、語り継がれていくだろう。

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