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覆面馬主【小鳥の7号】日本ダービーの想い出

馬キュレ
悲願のダービー制覇
ダービーこそがホースマンの夢
競馬の祭典
世代の頂点を決める戦い

このように形容されるダービーだが、馬主を始めたころは「なぜダービーこそが夢なのか?」と、疑問に思う事が多かった。
もちろん馬主をやっている以上勝ちたいレースNo1である事に変わりはないが、サラブレッドの中には、ダート馬も短距離馬も居る。

ダービーこそが・・・

と書かれると、そうではない適正の馬は、まるで落ちこぼれのようなイメージを抱いてしまう。

そして、ダービーを狙えるような馬に手が届かない馬主も「ダメ馬主」のレッテルを貼られているようで、ダービーという響きは、夢と現実が綯交ぜになった思いを強烈に意識させられてしまい、どちらかというとてもセンチメンタルな気分になる。

全ての馬がダービーを目指しているわけではない。
そもそもが、全てのサラブレッドがダービーを目指した配合をされているワケでは無いという矛盾もある。
目指したくても夢半ばで怪我をしてしまう馬も居る。
化骨が完全でない3歳春に無理をすることで、夢をを諦めるどころか、命を諦めざるを得ない馬も居る。

命と夢を削りながら目指すダービーのなんと苦しい事か。
ダービーが競馬の祭典とは思えない理由がそこにあるかもしれない。

ある種の悲壮感をまとった独特なレースだからだ。

この悲壮感、俺には「祭り」には見えない。
何か厳かで、ピンとした空気が張り詰めた「宗教的な儀式」のようにも感じる。

過去のダービーを振り返れば振り返るほど、ダービーというレース、ダービー馬という固体ではなく、「ダービーにまつわる諸々の話」が思い出されてしまう。

過去ダービーに出走してきた1人気、2人気、3人気、の人馬が背負ってきた「思い」は、もうそれこそ東京競馬場の地縛霊として、魔物と化し、様々な運命の悪戯を仕掛けてくる。また、夢に届かず出走枠を逃した人馬、夢半ばで故障に泣いた人馬、こういった悲喜交々の全てがダービーに詰っている事を考えると、ダービーだけは他のGIとは絶対的に違うなにか別物なレースなのだ。


「はじめに言葉ありき」

と説いた聖書ってものは、やはり凄い書物なんだと思う。

このシンプルなフレーズの中にある「言葉」という単語を「概念」という単語に置き換えてみる。

「はじめに概念ありき」

俺は「言葉」=「概念」だと思っている。もちろん、言葉を記号的に解釈する事も有るし、ただの意思疎通のツールとしてしか捉えない事も有る。しかし、言葉とは概念を伝えるものであるとすると、言葉の根底には必ず伝えたいなんらかしらの「概念」が潜んでいると思っている。

宗教のことはよく分らないが、「神」という概念が無ければ宗教も成り立たないし、概念だから解釈がずれたり誤解も生じる。もちろんその概念を信じることによって得られる安心感や希望、その概念を追求する事によって真理にたどり着き様々な悟りも啓かれる事になるのだろう。

俺は無宗教だから、神の啓示や神の言葉というものを深く追求したことは無いので間違っていたら申し訳ないし、そんな事に置き換えるな!と言われてしまうかもしれないが、そういったことを競馬界に置き換えれば・・・

「はじめにダービーありき」

という事なのだろう。

ダービーという言葉に意味は無い。
だって、イギリスのどこかのオッサンの名前だろ?
俺はそのオッサンの信者でもなければ、会ったことも無い。

神だってそうだ。
最初に「とある概念」を「神・GOD」という記号に置き換えただけだ。
もし、ダービーの概念を最初に提唱したのが「ブービー」というオッサンだったら、今俺は「ブービーの思い出」を書いている事になる。

話を戻す。

ダービーという「概念」があるからこそ、そしてその概念がいたってシンプルだからこそ、競馬はここまで発展したのかもしれない。

「はじめにダービーありき」

だからその辺のオネーチャンに「ダービーって凄いレースなんでしょ?」と聞かれても、答えに困る。 ジャパンカップや有馬記念も凄いレースだが、そういったレースとはそもそもの概念が違うように感じるからだ。

敢えて大げさに表現させてもらえば・・・

ダービーこそが競馬であり、競馬とはダービーである。

これは他のレースや競馬の仕組みを排他的に考えているのでは無く、「ダービーの概念を理解しないと競馬が理解できない恐れがある」という俺なりの解釈だ。ダービー以外のレースの諸々は「現代競馬におけるセーフティーネットのようなものなのかも知れない」とすら思う事が有る。ダービーだけが目指す道ではない、つまり競馬とは厳しくも優しい仕組みがなされていると言う事だ。競馬界にも多様性が認められる時代になって久しいが、それでも、その根底にダービーという概念が「どーん」と居座っている。だから、ダービーには明らかな短距離馬や、ダート馬までもが、参戦する。競馬の根本の概念がそうさせるのだろう。

皐月賞は「速い馬が勝ち」、ダービーは「運を持っている馬が勝ち」、菊花賞は「強い馬が勝つ」と言われ続けているが、運という見えざる物がキーワードになること自体、他のレースとは明らかに線が引かれている。

それも、「ダービーという概念」が言わしめていることかもしれない。

ダービーという概念が競馬界の根底にあり、それが人を突き動かしてゆく。
その概念が連綿と受け継がれ、様々な思いを産み出してゆく。

ダービーとは、そういった「競馬の真理」を突きつけてくるようなレースだと思っている。

だから俺は、ダービーの度にセンチメンタルになる。

だから、ダービーの栄光にチャレンジできる18頭以外の馬にも思いを馳せたくなる。
だから、残念ダービーといわれる白百合Sにもダービーと同じレベルの思いを馳せてしまう。

はなからダート血統で産まれてきた馬、はなから短距離血統で産まれてきた馬、こういった馬たちにも光を当ててあげたいと思ってしまう。

だって俺は「ダービー」みたいな物に出られるような人間じゃなかったから。

俺は今、フェブラリーSを目指している人間かもしれない。
俺は今、地方のダート未勝利戦での初勝利を目指している人間かもしれない。

それはおまえの努力不足だろ!と言われれば実も蓋も無いが、そこにはそれなりの人生があり、人間は「足るを知れば」幸せの基準は自分で決められる。

しかし、サラブレッドは・・・

こんな事を物凄く考えさせられてしまうのがダービーである。

さて、なぜこのようなことを書いているかといえば、答えは唯一つ。

「自己確認」

である。

なんのことはない、今年も馬主としては参加出来ずに遠くから見ているだけのダービーが行われようとしている。


俺はダービー馬に送られる「世代の頂点」という表現が好きになれない。
「まずダービーありき」とは異質の行動を取っている自分に気づかされるのだ。

だって、サウスヴィグラスの種を、ダービーを狙ってつけることは無いから・・・。
(もしサウスヴィグラス産駒が東京2400mのダービーを勝ったら申し訳ない・・・汗)

ダービーは取りたい、でも逃げている。
ダービーは取りたい、でも取れたらラッキーと半ば諦めている。

だから毎年この「自己確認」という作業が必要になる。

そして、ダービーに参戦する資格をつかんだ「人」たちに敬意を表す。
様々な苦難や迷いを乗り越え前向きに挑む姿勢、その「覚悟」に畏敬の念を覚える。

「運は覚悟がもたらす」のだろう・・・と。

馬主とは・・・

「はじめに覚悟ありき」

という事なのだろう。

つまり、ダービーとは一年に一度自分の「覚悟」と向き合う事のできる素晴らしい儀式なのだ。

それが俺のダービーだ。

だから、まだ、思い出にはなっていない。
今も尚続く「ダービーの最中」にある。

7号

って、偉そうな事書いたんだが、どれも思い出深いレースで、その中から1つなんて選べねーよ・・・ って事である。

じゃーな!



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